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写真とフレームとエトセトラ 第二回

第二回「写真思考のすすめ」

いつも、「何を撮っているのですか」と聞かれると日常とその周辺を撮っています、と僕はそのようなことを答えます。しかし、わかりやすい花鳥風月的な写真などではないもので、時々写り込む飼い犬や身近な人の手など。きっと側から見ると不思議なものを撮っているのでしょう。

今回は自分の中の写真について書いていこうと思います。

ちょっと堅苦しくなってしまいますが、悪しからず。

僕は常日頃から小型のカメラを携帯し、ペチペチと撮っていて。そしてそれらの「写真」は数百枚撮るたびにPCへ取り込み、またペチペチと始めます。

展示前にヨイショとその「写真」を数年分ほど遡り小さく印刷して並べ替える作業をします。

撮影した風景はカメラによって僕の「風景」の役割を終えて、次は誰かに対して何かを伝える手段、媒介するものに姿を変えます。それがそこに並ぶ「写真」です。「写真」とは僕の場合、他者への通路や導線の役割を担うものと考えて良いでしょう。

撮る行為により「風景」を「写真」として通路や導線のようなものへと変換する。ではどこへと接続するのでしょうか。それは鑑賞者である他者であり、時には社会であるのです。

では、ここで問題なのがそこに「日常」は写っているのでしょうか。「あるとも言えるし、ないとも言える」これが僕なりの答えです。その写真の鑑賞者が自分自身であれば日常の痕跡を見出すことができるために「日常がある」ということができます。しかし、それが他者であった場合、その写真は「日常のその周辺」であって、写っているのは「日常」ではないと言えます。しかし、その写真の中に他者と自分の接点があればその写真が「日常」に見えてしまうことがある。それが写真の面白いところかもしれません。 

今回はメディアとして考えた写真の僕の考えですが、僕の中では光画(光が描く画)としての写真の姿も捨て切ることはできません。どうやら写真というものは、いくつもの柱で成り立っているようです。

みなさんも「写真とは何か」時にはじっくりと考えてみてはいかがでしょうか。

では、また。

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